• Furuya Hirotoshi

世界のアーティストともに Vol.2

世界のアーティストともに・・・なぜ世界に挑むのか?


2010年のEXPO Shanghaiの折に、上海と姉妹都市である大阪府(読売テレビ)で、ユンディ・リの演奏収録が行われた。一連のピアノと収録音響全般を受注した。

ユンディ・リとは、非常に思い出深いエピソードが沢山あります。 先ず彼を知ったのは、忘れもしない2000年のショパンコンクールの折でした。スター性を持つ彼は、鮮烈な演奏とルックスで世界を釘付けにし、その当時の自分の姿と照らし合わせたときには、余りの乖離に愕然としたのを思い出します。彼は18歳、自分は年齢は上ですがそこまで変わらない同年代にも拘らず、彼は世界から称賛を浴び、かたや自分はまだまだ将来を模索中で方向性すら定まっていない・・・そんなギャップに心を震わせながら、ユンディを羨望の目で見たことを今でも思い出します。その当時、勿論今の自らの姿というものは想像できていませんから、当時の何もなし得ていない無名の若者が、ユンディ・リと重ね合わせること自体、かなりピントがズレているのですが、確実に彼の存在というものは私を鼓舞し、上へ登ろうとする原動力になったことは間違いありません。 『必ず世界を相手に、自分の能力が通じるところまで才能を信じ、必ずやり遂げてみせる。』 という信念のもとに、その後の10年を過ごしたのではないかと思います。一歩一歩階段を登り、多くの挫折や失敗はありましたが、それでもめげずに登り続けたと思います。 そんな歯がゆい時を経て、10年の歳月の後に自分の下へユンディとの仕事が舞い込んできたのは、巡り合わせという奇跡が起きたとも思えた瞬間でした。 『上海万博でピアノを使用したTV収録があります。かなり大規模なもので、読売テレビと上海を衛星回線でつなぎ、本土での放映が主となる業務です。ピアノの手配、音響面のサポートをお願いしたい。全ての責任を負ってもらえますか?』 という一本の電話がありました。勿論可能であるが、ピアニストは誰かを尋ねると、先方は余り音楽業界には精通していないらしく、 『リ・ユン・・・ユンリ?さんというのですかね?』 自分の中で一瞬走馬灯のように10年間が駆け巡り、 『ユンディ・リさんではないですか?』 というやり取りが行われ、夢の舞台に向かうこととなりました。 しかし、そこからとてつもないブッキングとキャンセルの繰り返しを経験することになります。 先方のディレクターと話を詰めていき、日本サイドでは全てのやり取りは良好でした。しかし、日本サイドはあくまでブッキングを担当しており、交渉しなくてはいけない相手は中国本土の放送局、上海メディアグループということが後々わかってきます。国をまたいでの仕事は一応慣れてはいましたが、自分が関わってきた国といえば殆どがアメリカとヨーロッパで、アジア地域は韓国との取り引きは若干の経験がありました。しかし、国が違えば物事の解釈は全く違うという経験も、この折に嫌という程実感させられることになります。 まず着々と準備を進め、収録まで2週間という状況で中国本土を地震が襲いました。そのためスタッフ一同日本側への渡航を延期するということで、話が頓挫します。もうこれはキャンセルになるかもしれないという状況が頭をよぎりましたが、再度日本サイドから連絡があり、仕切り直して日程を組み直すということに纏まりました。その後日本のブッキング担当者から伝えられたのは、金銭のやり取りも含め、全て上海サイドとの直接取引に移行していほしいとの要求でした。そしてその後は全て、中国との交渉が続きましたが、兎に角連絡がつかない・・・・ ピアノサイズはどれにすれば良いのか?マイクは何を選べばよいのか?こちら側からプレゼンテーションをしようにも、兎に角返信がない状況が続きました。日本サイドへはこの状況を説明し、一度キャンセルになった経緯もあるので、ピアノは小型のもので行こう・・・そういうことだったので、スタインウェイのA型を用意し取り敢えずは上海サイドの連絡を待ちました。 結局あれこれあり、最終的に連絡がついたのは収録1週間前でした。しかも、ピアノはスタインウェイのフルコンサートピアノを希望・・・・ 『これができなければ、大変なことになる。』 それはそれは必死でした。ピアノは何とか確保できましたが、兎に角状態が良くありません。あのユンディと仕事ができるのに、こんな状態のピアノでは手も足も出ない・・・・それ故、何日間徹夜してピアノを調整・仕上げたなど今となっては余り覚えていません。 『ユンディだって、一曲仕上げるのにどれ程の時間を要しているのか想像もつかない。であれば、自分もやれるだけのことはやる。』 という動機のもとに、あれほど自分を出し切った時というのも、それまで経験がなかったと思います。それほどに崖っぷちの状況に追い詰められていました。収録用のマイクは、直ぐに入れ替えができますが、ピアノはそうは行かない・・・・このときほど、アコースティック楽器であることを痛烈に実感させられたことはありません。 そしてトラックにピアノを積んで送り出したときには、朝焼けを見た記憶がありますから、数日間の徹夜の後に、朝方出荷することができたのだと思います。しかも、東京⇒大阪間という大きな”移動”という時間差があったので、こちらに掛かる負担というものはとてつもないものがありました。 そしてトラックを追うように、自分も読売テレビに到着。まだ不安定かもしれないピアノにつきっきりで時間を過ごしました。ユンディのマネージャーと音色の方向性を話し合い、更にはユンディが到着した折には、何度も意思疎通をしながら音色を作り変え、マイキングのポイントに変更を加えながら、理想的な音を探し求めました。

スタインウェイピアノの音色について、話し合うユンディと筆者。

これまでの数ヶ月に及ぶブッキングと、そして最終的に1週間で何とか仕上げたピアノを前に、精神的にも体力的にも完全に限界に達していました。しかし人間、こういうときにはアドレナリンが大量に出ているのか、物凄い疲れに襲われても、ユンディから、 『Excuse me』 の声がかかれば、直ぐに体が反応し半分意識が朦朧としていても、体が勝手に反応し仕事をこなしてしまいます。状態としては極限を越えた極限であったのですが、この時に自分を支えたものは間違いなく屈辱とも思えたあの歯がゆい10年間であったと思います。それまでの様々な積み重ねを、一気に放出するがごとく、この収録が行なわれた2日間に全てを出し切りました。 今となっては、余りの激しさ故にユンディとどんな会話をしたのか?どんな音にスタインウェイピアノを仕上げたのか?などの記憶は殆どありません。 しかし、この時はっきりと覚えているのは、ユンディと仕事が終わった翌日に、熱い真夏の太陽が登る大阪の朝日を見て、心から涙していました。ある意味、自分が音楽の世界に入り、1つ大きな山を超えたという思いとともに、真の意味でここまで大規模な国際的な仕事を、自分の才能と感性を信じ切り、たった一人で乗り切るだけの能力を身につけられたという、確かな手応えを感じていました。しかもメーカーとして仕事に出向いたのでなく、自分自身に向けて発せられた仕事が、これほど大きなもので、たった一人の信用力に支えられて仕事が向けられたことも、1つの大きな価値ある実績として自らを納得させるだけのものになりました。 この件から学べるものとしては、これほどに多くの負担を強いられ、また全身全霊で物事に臨む時に、人は初めて本格的な能力を身に付け、更なる洗練へ向かうという事実です。この経験は私を強くするとともに、強い信念は必ず形になることも実感させてくれました。この時に掲げていた会社のコンセプトは、『Keep the Faith』(信念を貫き通せ)でした。その信念を貫くことで、これ以上のチャンスを次々と手に入れていくことになります。そしてその信念という概念は、既に自らのものとして、しっかりと定着したと判断でき、近年では『One and Only』(唯一無二の存在として)をコンセプトとしています。 音というものを基軸にして活動してきましたが、これだけ多くのチャンスに恵まれるとともに、音だけに留まらない多くのノウハウの構築は、自分たちが社会インフラの1つとして機能し始めていることにも気付き始めました。夢の実現は勿論ですが、積み重ねてきた多くの経験は、今後社会に還元されるべきものと考えるに至っています。

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